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これまでの「少年の船」事業について

印刷用ページを表示する掲載日:2024年4月10日更新

概要

 枕崎市少年の船は、「子ども会のリーダーと育成会指導者が、三島営船「みしま」に乗船し、各子ども会の交流交歓をするとともに、洋上活動や三島村の風土に接した体験活動を通して、自立の気概に富むたくましい子ども会リーダーを育成し、地域子ども会の活性化を図る。」ことを目的に、昭和56年に始まりました。
 第22回にあたる平成16年から、事業の目的をこれまでの「子ども会のリーダー研修」を中心としたものから、「黒島流れの犠牲者のめい福を祈り、黒島の方々への感謝の心を育てるとともに、枕崎市の歴史、祖先の偉業について理解を深めること」を趣旨とした事業としました。

 黒島流れが本市のかつお産業にとって忘れてはならないことから、市内の関係組合・企業等からも支援を賜りながら、現在まで事業を継続しています。
 近年は、枕崎港出港後→黒島付近にて洋上慰霊祭→黒島の片泊港に入港し下船→慰霊碑(白衣観音)へ訪問および三島村民との交流→出港セレモニー後に枕崎へ向けて出港、という形で実施しています。参加者については、子ども会関係者だけでなく、広く一般市民の参加も呼びかけています。

 黒島流れの詳細についてはこちら

これまでの実施状況

 初年度は、鹿児島水産高等学校の練習船「薩摩青雲丸」で、屋久島にて一泊二日で実施されました。
 第5回にあたる昭和60年は、黒島流れ九十周年記念慰霊祭も兼ねて、大型客船「サンシャインふじ」で屋久島にて実施されました。この日は、少年の船として市内の小・中学生500人余りと、黒島流れの遺族や一般乗客約700人の計1,200人が乗船して、船上にて慰霊祭が執り行われました。

慰霊祭風景

 現在までの実施状況は下記のとおりです。

少年の船実施状況
年度 参加者数 年度 参加者数 年度 参加者数
1 S56 47名 2 S57 180名 3 S58 168
4 S59 163名 5 S60 481名 6 S61 157名
7 S62 215名 8 S63 226名 9 H1 288名
10 H2 192名 11 H3 159名 12 H4 198名
13 H5 227名 14 H6 266名 15 H7 146名
16 H8 145名 17 H9 204名 18 H10 198名
19 H11 185名 20 H12 354名 21 H13 271名
22 H16 241名 23 H17 238名 24 H18 244名
25 H19 240名 26 H20 175名 27 H21 114名
28 H22 96名 29 H23 114名 30 H24 167名
 
年度 小学生 中学生 一般ほか 合計
31 H25 36名 42名 89名 167名
32 H26 44名 16名 72名 132名
33 H27 22名 27名 68名 117名
34 H28 28名 11名 53名 92名
35 H29 47名 44名 69名 160名
36 H30 39名 67名 70名 176名
37 R元 46名 44名 81名 171名
38 R2
39 R3
40 R4
41 R5

 ※平成13〜15年度は、村営船が使用できなかったことから、事業実施は断念した。

 ※平成18・20・21・24・27・30・令和元年度は、天候不良等で中止となった。

 ※令和2〜5年度は、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため中止となった。

三島村(黒島)と枕崎のつながり

 三島村にある硫黄島には硫黄山という活火山があります。昔、この島で硫黄を採掘し、それを枕崎まで運んでいました。硫黄は、黒色火薬やその他にもいろいろな薬品の原料として用いられ、明国との貿易品として島津氏の重要な財源となっていました。当時、駕篭と呼ばれていた枕崎の小湊は、硫黄の一大集積地となっており、そこには硫黄崎という地名も残っています。また、その近くには、明治2年に吹き荒れた廃仏毀釈によって廃寺となった「岩崎寺」跡がありますが、そのお寺の正式な名前は「硫黄山岩崎寺」でした。

 黒島は、三島の中でも、椎・樫・椨といった照葉樹林が多く、遠目に黒っぽく見えたことから黒島と呼ばれるようになったといわれています。黒島との交流事業を昭和56年から開始した当時の市長田代清英氏の話では、人の手で育てる技術が確立する前、しいたけは貴重な産物で、当時の黒島は天然しいたけの産地として有名な島だったそうです。
 また、黒島の近海には、曽根といわれるカツオなどの回遊魚がたくさん寄ってくる漁場がありましたが、当時の黒島では現金収入が少なく、船を造るために枕崎の船主にお金を借りていました。そして、取れたカツオで鰹節や水産加工品を製造・販売して、借りたお金を返していました。
 その後、枕崎や坊津などから多数の漁船が黒島近海に進出してくるようになり、漁場に収め、さらに、毎年1回は決まった量の米を収めることを見返りとして、海が荒れたときは、黒島に避難することを認めることなどを取り決めました。

 当時の船は、冷蔵技術がない上に船のスピードも遅かったため、釣り上げたカツオが痛まないうちに加工する必要がありました。そのため、船の中に直径80センチメートルほどの釜を積んで応急的にカツオを軽く茹でておき、枕崎に帰港してから再度煮て製品に仕上げる「沖イデ」製法を行っていました。
 ただ、この製法では品質の良い鰹節をつくることができなかったため、漁場に近く、豊富な森林資源があり、カツオをゆでるのに使う薪の供給に最適な黒島に、作業場を設けて鰹節にする「島イデ」という方法が採用されるようになりました。
大正10年に枕崎に製氷工場が建設され、漁船が魚の鮮度保持のために氷を使えるようになると、「島イデ」の必要がなくなり、現在のように枕崎にカツオが水揚げされ、鰹節に加工されるようになりました。

参考文献

 枕崎市誌編さん委員会.枕崎市誌上巻.954
 枕崎市誌編さん委員会.枕崎市誌下巻.711
 枕崎市教育委員会.令和5年度まくらざき家庭教育手帳.45

リンク

 黒島流れについて(枕崎市ホームページ)
 三島村ホームページ<外部リンク>