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黒島流れ

印刷用ページを表示する掲載日:2024年4月10日更新

概要

 「黒島流れ」とは、明治28年7月24日に黒島付近を通過した台風による海難のことで、枕崎の海難史上最大の悲劇といわれています。当時黒島近海で操業中のかつお漁船はこの台風により多数沈没し、犠牲者が713名に達する大惨事で、枕崎だけでも411名の犠牲者がでました。このような犠牲の大きさにもかかわらず、この黒島流れのきっかけとなった台風は、鹿児島での最大風速、わずかに12.6メートル、九州地方では下関の30.7メートルが最大で、比較的小規模な台風であったと推測されています。

 当時は、気象予報や通信機器というものが現在のように発達していなかったため、天気の予測や判断は経験豊富な漁師の勘に頼っていました。また、当時の漁船は七反帆船と呼ばれる、一番幅が広いところで3メートル、長さが15メートルほどの木造帆船でした。船のスピードが遅い上に風の影響を受けやすく、防風の接近に気づいたときは、常に遭難の覚悟をしなければなりませんでした。

 このようなことから、昔から多くの海難事故が起こっていたものと思われ、枕崎であきらかになっている犠牲者だけでも数百人いることから、祖先の方々は筆舌に尽くしがたい苦労とおびただしい犠牲を払いながら、今日の枕崎の漁業発展の礎を築いてこられたことがわかります。

 この黒島流れは、本市の道徳教育の中で題材として取り入れられたり、青少年教育の一環としての「少年の船」事業を継続して実施したりするなど、現在の枕崎のかつお産業にとって忘れてはならないこととして次世代に引き継がれています。

 「少年の船」事業の概要はこちら

黒島(三島村)の人々とのかかわり

 明治28年7月24日、台風が去った後、黒島の海岸には数々の破船が打ち上げられ、おびただしい数の死体によって埋め尽くされました。遭難者の死体は打ち上げられた付近の浜辺に集められ焼かれました。当時石油は貴重品で、なかなか手に入らなかったため、松の木を切って運んできて焼いたといわれています。遭難者の遺族は、その骨灰を分配して土葬をされました。

 また、その中にも助かった人もいました。これに気づいた黒島の人々はひもや縄などを持って断崖絶壁の岩場に降りていき、降りるだけでも大変な崖を、大けがをした人や今にも死にそうな人を背負って登り、ようやく家まで連れて帰りました。帰った後は、みんなで協力しあって、けがの手当てや食事の世話をしてくれました。そのころ黒島では、「ご用心米」といって、船の遭難や重病人が出た時などいざという時のために、非常食として米を蓄えておく習慣がありました。黒島は山地が中心で、米は少ししか取れないため、普段はからいもや粟などを食べていましたが、黒島流れでけがをした人たちのために、その大事な米を出し合って、枕崎から助けがくるまで世話を続けてくれました。そのおかげで助かった30人余りは、すっかり元気になり、枕崎に帰ることができたのでした。

 このことに枕崎の人々は心から感謝し、その恩に報いるために、黒島の方々が枕崎に来られると宿を提供したり、接待したりして交流を深めたといわれています。

かつお節行商

 「かつお節は、いいやはんかなあ」

 今はほとんど見られなくなりましたが、明治時代から続いてきた鰹節のバラ売りの声です。枕崎の鰹節生産は日本一ですが、その陰には黒島流れに関係する「かつお節行商」の物語があります。

 黒島流れによって、かつお漁業に従事していた人々の家族は一瞬にして父を夫を失い、明日からの生計の道を断たれて、悲痛のどん底に沈みましたが、この遺族たちを救済するため取り上げられたのが、婦女子たちによる「かつお節バラ売り行商」でした。

 この行商開始については当時の船主の有志たちによってなされましたが、特にこのかつお節行商婦を奨励されたのが、大願寺の当時の住職、兼広師であったといわれています。師の手厚い配慮により、県内くまなく建立され散在しているお寺の組織網を使い、かつお節行商婦たちを助けられました。各地の寺々の住職にお願いし、そこの門徒たちへ黒島流れの惨状を伝えてもらい、一瞬にして遺族となった婦人たちがかつお節行商に雄々しく立ち上がった境遇を宣伝されたのです。

 かくして枕崎のかつお節は、「かつお節は、いいやはんかなあ」の独特の売り声とともに、未亡人たちの汗と足によって、県内をはじめ、遠く宮崎や熊本までのいたるところまで広がっていき、その後幾十年にも引き継がれていったかつお節行商は、各地の人たちにとってなじみ深いものとなりました。

かつお節行商かつお節行商2

↑かつお節行商の像(左:枕崎駅、右:原公園)

90周年慰霊祭

 黒島流れから九十周年となる昭和60年、遺族や関係者ら約700人が参列し、黒島近海で大型客船「サンシャインふじ」の船上にて、黒島流れ九十周年記念慰霊祭が行われました。この日は、少年の船として、市内の小・中学校の児童・生徒ら500人余りと、遺族や一般乗客700人の計1,200人が乗船し、枕崎港を出港しました。

慰霊祭風景

 追悼の言葉(第5代枕崎市長) [PDFファイル/231KB]

九十九人溺死の碑

 黒島流れがあった当時、枕崎には60艘のかつお船がありましたが、その約半数が遭難し、再起不能に陥った船主が多くいました。特に、塩屋、田畑などの小湊区では、99人もの遭難者を出したため、その悲惨は名状しがたいものでありました。

 その99人を祀る碑は、当時の小湊区長森誠之進をはじめ、地元選出の村会議員や船主らの有志によって、黒島の洋上を見渡せる田畑集落墓地の砂丘に建立されましたが、昭和38年に墓地移転とともに立神墓地の入り口に移転されました。「九十九人溺死の碑」として、遭難者の名前が彫られています。

慰霊碑

参考文献

 枕崎市誌編さん委員会.枕崎市誌上巻.954
 枕崎市誌編さん委員会.枕崎市誌下巻.711
 枕崎市教育委員会.まくらざき家庭教育手帳.44
 枕崎市教育委員会.枕崎市史跡処

 

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