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枕崎のかつお節

印刷用ページを表示する掲載日:2020年1月14日更新

かつお節の由来

かつお節写真  カツオは魚へんに堅(かたい)と書いて「かつお」と読んでいましたが、この語源は「カツオ」が古くからかたい魚、すなわち乾物(ひもの)として利用されていたものであり、単に生の魚をそのまま熱くかためたものと推測されます。

 かつお節の作り方が、煮て日乾する方法に移ったのは今から1200年~1300年前の中古時代のころからといわれ、さらに進んで火乾と言う作業が加えられるようになったのは戦国時代の末から徳川時代のはじめのころと推定されています。

 

かつお節の歴史

 かつお節は、カツオを原料とした日本特有の水産加工品でありますが、その起源については種々の説があって明らかではありません。

 カツオは春から秋にかけて黒潮に乗って日本近海を北上する回遊魚であり、関東・奥羽地方で発見される貝塚の中にカツオの骨が数多く見られることから、古くから生食されていたことがうかがえます。一方「大宝律令(701年)」や、「延喜式(905年)」のなかには貢進物として"堅魚"、"煮堅魚"、"堅魚煎火"の名があり、素干しあるいは煮熟加工した保存食として利用されていたことがうかがえます。

 鎌倉、室町時代になると、カツオは武士の間でも賞味されるようになり、戦国時代になると、「勝男武士」と書いて「かつおぶし」と読めることから縁起物として重用され、また兵食にも用いられたということです。

 江戸時代に入ってかつお漁業が太平洋沿岸で盛んになり、江戸中期から後期にかけて本格的なかつお節製造の段階に入りました。

 薩摩では1518年七島臥蛇で献上物として用いられていますが、現在のような燻乾品であったかどうかはわかりません。

 今のような製法は、1674年(延宝2年)紀州熊野浦の漁師甚太郎がばい乾法で製造したのが起源とされており、その技法が1707年(宝永4年)に森弥兵衛により伝えられ、この頃から枕崎で煮熟ばい乾を基礎とするかつお節製造が始まったと言われています。

参考資料:昭和34年10月枕崎かつお節製造業産地診断報告書(鹿児島県商工課)、枕崎市史

かつお節の作り方

かつお製造写真 鰹節は生切り、煮熟、整形、ばい乾(煙でいぶしながら乾燥させること)、カビ付けという工程を経て作られます。

 まず、カツオの頭を落とし、内臓・腹皮を除いた後3枚におろし、合い断ち(カツオの肉を背中側と腹側に切り分けること)を経て、計4つの切り身に切り分けます。ただし、カツオが小さい時は3枚おろしまでで終ります。これは亀節になります。

 次に、切り分けたカツオの身を籠に並べてお湯で煮ます。煮あげたら空気中で冷まし、余分な皮や骨を除きます。その後、形を整えてばい乾を行います。

 ばい乾が終ったものを荒節、荒節の表面を削り形を整えたものを裸節、裸節にカビをつけたものが本節(本枯節)になります。ほかにばい乾の長さを短くし、鰹節の水分を保つことで生利節・若節なども作られます。

 鰹節の製造は長年の経験や熟練した職人の技術が求められる製法であり、また本枯節などにおいては平均しても約3ヶ月、長いものでは1年かけて作られます。

さつま鰹節協会

 さつま鰹節協会は、枕崎市の水産加工業や漁業関係など3団体で構成されています。

 鰹節は枕崎市で全国の約5割を占める日本一の産地です。

 協会の活動や鰹節の魅力などをホームページで紹介しています。

 さつま鰹節協会ホームページ<外部リンク>

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